お葬式

おじちゃんが亡くなった。病院に入院して1週間だったらしい。うちの親戚は私が小学校の時にばたばたと死んで、それからはお葬式に行くこともなくて、大人になってからはほぼ初めてのお葬式に行った。千葉の「業界最大手!」ということを売りにしている斎場に行く。喪服も持ってないから実家から持ってきてもらった。式服なんてそう何回も着ないし、完全にコスチューム化してる。着ないと式に出られない。あと、親が私の分だけお香典を用意していて、ウチは分家扱いなのか、ということを知る。結婚してないけどもう実家の人じゃないのかあー。あーそうかそうかー。
決められた通りの決められた型に従ったお葬式。喪主の挨拶も用意された原稿を読んでいるだけで味気ないなあー。まぁでもお葬式なんて儀式だから、形通りに滞りなく済ませることが美なのかもしれないなぁとか考える。呪術使いのような住職さんの動きで涙がびゅっとひっこんだ。なんだそのおもしろい動きは。じわりと泣くこともままならないなあー。お焼香をしながら「おじちゃん久しぶりだねえー」と話しかける。いつも忙しくて法事に行けないので、会うときはいつも久しぶりなのです。また今度会うときもまた久しぶりになるね。
誰が取り乱すわけでもなく淡々とお葬式は進んで、出棺の時間。棺の中のおじちゃんはなんだかマネキン人形みたいだった。魂ってほんとにあるんだなぁと思う。昔はお棺に釘を打って止めてた記憶があるんだけど、今はやらないんだね。蓋がばーんとあいてキョンシーみたく出てきて笑うおじちゃんを想像してこっちが泣き笑う。おじちゃんならやりかねないから。でもそんなくだらないコントみたいなことは起こらない。そうだね。起こらない。死んじゃったんだからね。
霊柩車は笑っちゃうほど金ピカだった。「なんだこの成金趣味は、っておじちゃんが生きてたら言うだろうね」と妹が言う。千葉センスですか?なんだろう。泣かさないように泣かさないようにっていう配慮ですか?この車で天国に行けますか?
すっごく遠い焼き場までみんなでバスに揺られて行った。ここでもベルトコンベアに乗せられたみたく流れ作業でお葬式は進んでいった。何も考えないことが求められてんのかもな。てか、ショックで頭が空っぽの人でも滞らないようなプログラムなのかもな。だからあっけなくおじちゃんはすいこまれていなくなった。そこには悲しいとか無念とか、そういう感情は横入りする余地がなかった。
うちのおっかさんは両親も兄弟もみんな死んじゃったんだなあ。信じたくないみたく、焼香をする時もお棺にお花を入れる時も、それこそおじちゃんが窯に消えていく時も、自分は関係ないんだって言いたいように必ず後ろからながめているだけで、とにかくちょっとふてくされた子供みたくなってた。子供帰りしてたのかも。末っ子だったんだなあ。かわいがられてたんだろうなあ。
また型どおり飯を食わされて、1時間ほど待っていると、おじちゃんは骨になって出てきた。見慣れた顔はないけど、生きて帰ってきたみたいだった。死体の顔を見るよりも焼かれた骨に生を感じるなんておかしい話だけど、また魂がそこにあるような戻ってきたような感覚があった。
うちのかーちゃんはやっぱり後ろの方でイヤだなあーっていうオーラを放っていたのだけれど、ふっと前に出てきて、骨をじーっと、親戚の人たちが笑い出すほど長い間じーっと骨を見つめて、おじちゃんの息子に「見過ぎですよ」って言われると、「兄の骨だから。どこの骨だか知りたいじゃない」と少し怒りながら言った。私も笑うふりして同じようにじーっと「どこの骨だ?」と見ていたのだ。この親にしてこの子ありだな。70歳を超えてるとは思えないほどぶっといしっかりとした骨がぎゅうぎゅうと骨壺に詰め込まれる。昔の人じゃないけど、こんな小さい箱に入っちゃうんだなあとぼんやりと考えていた。